ヘッダー画像

全記事(数)表示

全タイトルを表示

ボットチェッカー

Yahoo!ボットチェッカー MSNボットチェッカー Googleボットチェッカー

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

楽天

フリーエリア4

i-mobile
i-mobile
i-mobile
i-mobile
i-mobile

ブログマガジン(ブロマガ・課金記事)の説明

「ブロマガ(課金記事)購読する」をクリックして下さい。下のような画面表示になります。(クリックしたこの時点では、まだ料金は、発生しません。)
福岡・山口を中心とした地域情報発信型ブログマガジン。 ①元総理大臣麻生太郎・新党改革舛添要一の自宅、別荘写真や家系図 ②筑豊御三家と言われる貝島、安川、麻生(太郎の家系)と堀、伊藤(伝右衛門と柳原白蓮)を加えた筑豊五大炭鉱王 ③国家君が代に隠された秘密(2番が存在した・さざれ石とは) ④なぜ原爆が長崎に落とされたのか?なぜ戦艦大和は撃沈されたのか?など戦争にまつわる秘話 ⑤安全・簡単・(無料)・運動なしですぐできる究極のダイエット法 ⑥簡単にめまいを治す方法 ⑦日本に2台・ウニモグ・耐熱装甲型救助活動車の全て ⑧福岡県にしかない絶滅した幻の花 ⑨知られざるぺ・ヨンジュンの素顔 ⑩軍艦防波堤         ⑪天変地異?7色に変化した夕日 ⑫映画ロケ地・おっぱいバレー ⑬北九州市の火山 ⑭深海魚・ラブカ    ⑮UFO/心霊写真 ⑯坂本龍馬          ⑰歴女、海子、工場萌え ⑱ナニコレ珍百景  ⑲幸運の木 ⑳絶対になくせるいじめ根絶方法、横田めぐみさんを100%救出する方法などなど。

アクセス

ブログパーツUL5

リンク

ブログ内検索

QRコード

QRコード

PING送信チェッカー

RSSフィード

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

YOUTUBE

YOUTUBEチャンネルの登録をよろしくお願いします。Registration please channels.
    
            

今年こそ行けるかも?野村楽天CSへ

2009/09/27
category - 日記
コメント - 0
                         
 楽天は26日、西武21回戦(西武ドーム)の0-4で迎えた五回、
球団史上初となる3者連続アーチで反撃開始。あれよあれよの
猛攻で大逆転勝ち。球団初のシーズン70勝に到達、クライマックス
シリーズ(CS)進出マジック「8」も再々点灯し、いよいよカウント
ダウン開始だ!!
 野村監督は確信した。70勝に到達し、CS進出マジックは「8」。
5年目の楽天は、CSに向かう資格がある。
 この日、日本ハムに敗れたソフトバンクとの差はついに0.5ゲーム。
CS進出はもちろん、2位も、その視界にとらえた。
(引用抜粋 GOOスポーツ)
 野村克也監督率いる東北楽天イーグルス。監督の野村克也氏については、
みなさんよくご存知だと思うが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
より引用抜粋をする。
愛称は「ノムさん」。現妻はタレントの野村沙知代。息子は現・楽天
1軍バッテリーコーチの野村克則。継子にはプロ野球エージェントの
団野村、ケニー野村がいる。

 通算試合出場数は歴代1位(実働年数は歴代2位)、
通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれも
パ・リーグ記録である。球史に名を残す選手である。選手・監督時代
を通じて勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、
野球理論・野球技術の発展に貢献している。

 1975年5月13日、野村が史上初の通算2500本安打を達成したときの
観客はわずか6000人ほどであり、また拍手をしたのは数十人だった
といわれる。野村はこの試合後のインタビューで「王や長嶋が
ヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」と答え、
それ以後「月見草」が野村の代名詞となった。
 投手の癖を盗み、ボールを投げた瞬間に球種・コースを見破る
技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが
全く打てず、野次を浴びるほどだったが、投手の癖を盗みカーブを
事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と
各投手との駆け引きの中で身につけたものだった。なかでも西鉄の
エースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心の末癖を
見破れば稲尾はそれに気づいて対策を講じるという、ハイレベルの
駆け引きを繰り広げた。

 捕手として守備についた時には、相手打者にささやくことで集中力を
奪うこともあった。最初のころは「次は頭にいくでぇ」といった直接的な
脅しだったため、阪急の西本幸雄監督も「先に野村にぶつけろ」と
指令を出した。その後鶴岡と西本の会談が開かれて脅しは止んだ。

 その後、私生活など集中力を乱す方向へ変更された。この策は
「ささやき戦術」として知られる。ライバル選手の私生活に関する
情報収集のため、繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、選手の情報を
仕入れるのが常だったと語っている。

 阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、
投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の
原型である。クイック投法は現在ではどの球団、更にはメジャー
リーグでも採用しているが、最初に発明したのは野村だった。
このころは野村の現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、
それを補うために考え出した策である。

 1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、
「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ
専任の投手へ転向させた。江夏は「『革命』と言われなかったら
リリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。江夏はこの年
最多セーブ投手のタイトルを獲得し、この活躍はリリーフの役割が
重視されるきっかけになった。(これら、働き盛りのピークをすぎた
選手をトレードで獲得し、もう一花咲かせることで、「野村再生
工場」とも言われた。)


 1977年9月28日、シーズン終了まで残り2試合、2位の時点で解任
される。解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代
の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」である。
 解任後、ロッテに移籍。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく
1989年にダイエーに身売りされた。なおホークスの連続Bクラスは
1997年まで20年続いた。

 1978年、金田正一監督のロッテに移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの
「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は
流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。
 1979年、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。
 1980年は控えに回る事が多くほとんど目立った活躍はなかったが、
オールスターゲームには監督の推薦により出場。1950年代、60年代、
70年代、80年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。
また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち
1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、
ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代
最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3000試合出場を
達成。同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。
最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき
45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に
4ヶ月及ばなかった。

 解説者時代には、「野村スコープ」
(打者のストライクゾーンを9つに分け、投手の球種と打者の特徴を解説
した。)を駆使して、素人にも分かりやすい解説を行った。「野村スコープ」の
的中率は、素晴らしく(「この打者のここにカーブを投げると、必ずファールに
なる。などと予告し、実際にその通りになった。)今までの解説者のイメージを
塗り替えた。(元投手のKの解説では、アナに何を聞かれても答えは、
「根性」とか「体を鍛えろ。」など抽象的であった。)そのため、各放送局は、
こぞって野球解説に野村氏を呼んだ。

 多くの野球人の中で、野村ほど第一線を退くことなく野球を続け、
オフや休日にも講演やテレビ出演、自著本など数え切れないほどの
仕事をこなす人物は類を見ない。現役時代は捕手という負担の大きい
ポジションで歴代選手一位の出場数を記録し、プレイングマネージャー
まで兼ねており、監督としても試合記録を通算3000試合の大台にのせている。

 1989年の秋、野村の野球解説の鋭さを評価していたヤクルトの
球団社長(当時)から監督就任の要請を受ける。南海時代に残っていた
監督業への未練でこれを承諾する。 監督に就任した頃のヤクルトは、
投手の高野光、伊東昭光、荒木大輔、内藤尚行、加藤博人、川崎憲次郎、
野手の広沢克己、池山隆寛、栗山英樹、笘篠賢治、橋上秀樹、長嶋一茂、
秦真司、荒井幸雄など素質に恵まれた人気選手が多く、ファミリー主義と
明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。しかし勝負への甘さがあり、
長年にわたる負け越し・Bクラスの状態が続いていた。

 そうした中での就任は、チームカラーにあわないと懸念する声も多く、
世間からは「過去の人」「ヤクルトにとっては部外者」というイメージを
受けた。。

 1990年、データを重視するという意味の「ID野球」を掲げてチームの
改革を図る。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じた
バッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを
獲得する(1993年)など成長を遂げたが、池山は本塁打数を野村
就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだ。また、ドラフト2位で
入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった
秦真司が外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。
しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、結局5位に終わり、
前年の4位を下回った。
 1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、Aクラスの3位に躍進。
野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を
遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たし、
二塁手から今度は中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした
華麗な守備と走塁で注目を浴びた。高津臣吾に「日本を代表する
抑えになれ、西武の潮崎(哲也)のシンカーを参考にしてシンカーを
投げろ」と助言し、その成長を促した。

 1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。9月には故障から4年越しで
復帰した荒木の起用もあった。日本シリーズでは最終第7戦まで
もつれ込む激戦の結果、西武に敗れた。この年に活躍した選手には
前述の選手のほか、投手の西村龍次、岡林洋一、高津臣吾、野手の
ジャック・ハウエルらがいる。また、ベテラン選手の渋い活躍もあった。
他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手と
して、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。

 1993年は、長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で
自信を深めた古田・広沢・ハドラー・ハウエル・池山・荒井・飯田・秦の
レギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、前半戦に新人伊藤智仁が
大活躍。伊藤は酷使がたたったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の
伊東・川崎・西村、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエース
として定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。
日本シリーズは、前年に続いて西武と戦い、再び最終第7戦まで
もつれ込む激戦の末、遂に日本一に輝いた。

 1994年は投手陣や古田などけが人が相次いだこともあり、低迷。
ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位だけは逃れた。

 1995年は、前年オフの間に主砲の広沢(FA制度を利用)とハウエルが
巨人に移籍した。しかし投手の石井一久、テリー・ブロス、山部太、高津、
野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、阪神を自由契約になっていた
トーマス・オマリー一塁手、前ロッテのヘンスリー・ミューレン三塁手、近鉄との
間で西村投手とのトレードで獲得した吉井理人投手など移籍してきた選手が
活躍。安定した戦いぶりでセ・リーグを制した。また、オリックスと対戦した
日本シリーズはイチローを内角高めの速球を意識させることで封じ込め、
日本一になった。
 1996年は4位に終わる。

 1997年の開幕対巨人戦、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦が
エース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま
開幕ダッシュに成功する。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げ、
最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけて
リーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り3たび日本一となる。この年
活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑(ダイエーから獲得)、野手の古田、
土橋、池山、宮本慎也、真中満、稲葉篤紀、シーズン前に酷評した
ドゥエイン・ホージー、1996年に田畑とともにダイエーから移籍した佐藤真一、
青柳進、同じく1996年に西武から移籍した辻発彦、オリックスから移籍した
馬場敏史、中日からテスト入団した野中徹博らがいる。
 1998年は4位に終わり、この年のオフで勇退。最初に2連覇した後、
日本一→4位→日本一→4位→日本一→4位と日本一と4位を交互に
繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。

 独特のキャッチフレーズ、池山に本塁打を減らすバッティングを
指導したというエピソード、脇役の個性的な面々などが特徴として
あげられたが、優勝する年は基本的に「助っ人外国人の当たり年」であり、
高いチーム本塁打数・得点を記録。チーム防御率が下位に沈みながら
日本一に輝いたケースすらある。前年の先発ローテ投手が2年連続で
活躍することはほとんど無く、こうした「当たり年」に西村や伊藤智、岡林、
川崎等、有望な投手を多く注ぎ込んだ結果、早期に投手生命の限界を
見せる傾向も多かった。これについて野村は『エースの品格 一流と二流の
違いとは』で、反省すべき点として挙げている。

 現西武ライオンズ監督である渡辺久信は、現役晩年の野村指揮下で
過ごしたヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』
で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。曰く、野村ヤクルトは
西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。
そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながら
ホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い
付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の
授業のようなことをしていたという。

 その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時
「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら
実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の
打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた
野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを
感づかせてくれるような機知に富むものであったという。

 阪神監督時代は「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が
通じないのか」と酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)、
ダレル・メイ(後に巨人移籍)、坪井(後に日本ハム移籍)ら主力選手、
岡田彰布2軍監督との対立・確執が表面化。阪神はOB会が強い権力を
持ち、ダッグアウトにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、
彼らとの確執もあった。また、戦力的に使えないとされる選手をなぜか
優遇する一面も見られ(2002年オフに、後任の星野はフロントを説得して
大量の戦力外通告をおこなった)、結果的には3年連続最下位に終わった。

 しかし、投手陣では福原忍に大きな期待をかけて重用し、若手で実績が
無かった井川慶をエースとして育て、野手陣でも赤星、藤本、沖原、濱中、
上坂などの若手を積極的に起用し(赤星、沖原らは野村本人がスカウト
として日本選手権等を視察してピックアップした選手)、矢野輝弘に捕手と
して大きな影響を与え、桧山をスランプから脱却させるなどの選手育成も見られた。

 また、フロントへの積極的な戦力補強の進言も見られ、久万俊二郎
オーナーは元々FAなどで日本人選手を多額の金銭で獲得することに
渋っており、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが
監督の役目」などと拒否していたが、野村は「ある意味では
(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、
「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで
生え抜きで成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年
待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会い
なんですよ」と説いた(著書『野村ノート』より) 後任として中日の
監督だった星野を推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では
阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば西本
(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと
言われる。その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督
2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。また4番バッターについても広島から
FAで金本知憲を獲得している。後任の星野もオーナーに直談判をし、
「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と
発言したが、阪神の監督が久万オーナーに自ら会談したのは野村が最初である。

 また、星野は「教科書としてよく出来ている」ということで『野村の考え』を
テキストとして使ったことがある。

 1999年のオープン戦で、強肩の新庄剛志を「投手心理を理解させるため」
ピッチャーとして起用したことは話題を呼んだが、野村が提言する「考える野球」と
新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。1999年6月の
対巨人戦におけるサヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を
打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「勝手にしろ」と事実上の
ゴーサインを出している。結果は三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。

 2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における
阪神戦(交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、
甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。

 現在でも、野村監督時代に台頭した赤星、藤本、矢野、桧山らは楽天戦の
試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによってたびたび報じられている。

 2002年秋から社会人野球チームシダックス野球部監督兼ゼネラル
マネージャーに就任した。 就任当時のシダックスは弱小チームであり、
走者が送球に当たってアウトになるなど凡ミスの連続だったが、野村は
持ち前の理論を元にチームを徹底的に改革。また、解説者時代に培った
豊富な人脈でキューバ人選手を獲得するなど大型補強を敢行し、チームは
野村就任後わずか数ヶ月で社会人野球ベーブルース大会で全国制覇を達成
野村は史上初のプロ・アマ両方での日本一監督となった。このときの選手に、
野間口貴彦や武田勝、オレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコなどがいる。

 その後、都市対抗野球で準優勝するなど快進撃を続け、瞬く間に社会人を
代表するチームとなった。2003年の都市対抗野球では野村采配見たさに
社会人野球では異例の4万人のファンが押しかけ、東京ドームが満員札止めとなった。

 2004年には日本が勝てなかったキューバの五輪金メダルチームに
練習試合で完勝し、「シダックスこそが世界最強」とさえも言われた。
この試合では、野村は後にプロ入りする野間口貴彦や武田勝に比べて
力が劣ったためにプロ入りできなかった杉本忠という無名のアンダースロー
投手を先発させてキューバ打線を完封した。野村はキューバの打者が
アンダースローが苦手だと見抜いていた。試合後、野村は「なぜ
長嶋ジャパンはアンダースロー投手を代表に入れないのか」と選手選考を批判した。

 その後も多くの社会人大会で優勝した野村シダックスだったが、野村は
楽天監督就任要請を受けたために2005年10月3日、社会人野球日本
選手権を最後にシダックス監督を退任することを発表。11月19日の
対日本生命戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、日本
野球連盟は、社会人野球界に大きな貢献をしたとして、2005年社会人
ベストナイン特別賞を野村に授与している。

 以上、野村克也氏のほんの一面を紹介したが、今日、9月27日も西武を相手に
楽天が先発全員の16安打で快勝し、球団初の貯金10とした。
 あの楽天が。である。創立1年目のシーズン最終成績は
38勝97敗1分(勝率.281)で開幕前から囁かれていた「シーズン100敗」
こそ辛くも免れたものの、5位・日本ハムと25ゲーム差、31年ぶりのリーグ
優勝を果たしたロッテとは47ゲーム差、レギュラーシーズン1位の
ソフトバンクとは51.5ゲーム差も付けられる散々たるものであった。
 勝率.281とは、2流打者の打率より低い数字である。この頃は、
「パリーグのお荷物球団」と陰口をたたかれていた。
 
 それに比べると雲泥の差である。
ますます楽天から目が離せなくなった。


スポンサーサイト
                                 
                                      

コメント

非公開コメント

    

YOUTUBE

YOUTUBEチャンネルの登録をよろしくお願いします。Registration please channels.

解析用HTMLタグ

月別アーカイブ

Amazon商品一覧【新着順】

FC2アフィリエイト